技術も生活水準も劇的に進化したはずなのに…ささる古代の言葉
「足るを知る者は富む」
この言葉を最初に知ったのは私がまだ高校生で、倫理の授業で老子を習った時ですね(老子は実在を疑われており、春秋戦国時代の頃にいたかも?という謎多き人物のようです)。
その時はたいして気にも留めなかったですが、改めて読むとまだ労働をしたことのない、あまり世間のことを知らない高校生には真の意味で理解するのは難しいかもしれませんね。
「満足することを知っている人は精神的に豊かであり、幸福である」
欲望には限りがなく、どれだけ手に入れてももっと欲しいが続く。
→ 永遠に満たされない。
満足を知る者はすでに不足がない
→ 心が安定し、外部環境に左右されない。
精神的な安定こそが最大の富
→ 物質的な量ではなく、心の状態が豊かさを決める
本来はこのような精神的、哲学的な意味ですね。
この言葉は金銭的なテクニックのことを言っているわけではもちろんないでしょうが、その部分でも通用すると個人的に感じていて、
「欲望には限りがないので、ある程度の水準で満足できる人は、金銭的にも富む」
結果として金銭的成功にもつながる人間の欲望の構造を言い当てているように私は思えるんですよね。
足るを知らない人:収入が増える度に生活水準を上げ続ける。他人と比較してさらに欲しくなる。もっとを追い続ける。結果として、どれだけ稼いでも貯まらないラットレースに陥る。
足るを知る人:無駄な消費をしない。比較で消耗しない。欲望の暴走がない。精神的な余裕がある。結果として、支出が低く貯蓄・投資が進む。
特に現代は欲望を刺激する装置が多いと感じます…SNSで他人の成功を見る、検索連動型広告による興味のある分野の広告表示、特別感のある高級品、上昇志向の価値観、比較文化等々…足るを知らないと、見栄、物欲、生活水準等が際限なくインフレしやすく、収入が増えても支出や欲望も一緒に膨らみやすいように思います。
老子はお金の話をしているわけではありませんが、老子が見抜いたのは人間の欲望の構造であり、現代の行動経済学の分野でも語られる内容を含んでいるところに驚かされます。
ヘドニック適応(快楽順応)
→人はどんな環境にもすぐ慣れ満足度は元に戻る(足るを知らなければ、永遠に満たされない)
サティスファイシング(満足化)
→最適解ではなく十分良い解を選ぶ方が幸福度が高い(最善の選択を求めて永遠に比較を続ける最大化人間より自分なりの一定の基準を満たせば納得できる満足化人間の方が心理的な幸福度や満足度が高い)
社会的比較と参照点の理論
→人間は自分の絶対的な豊かさではなく、他人との比較や過去の自分との比較で幸不幸を決めてしまう傾向がある。(変動し続ける外部の参照点を捨て、自分の中に不動の基準[足る]を持つという、最強のノイズキャンセリング戦略)
行動経済学はデータによって、「人間は放っておくと欲に溺れて不幸になるバイアスを持っていること」を明らかにしました。それに対し、老子は古代にそのバイアスを認識し、意識的に満足を選択せよという解決策を提示しているように私には思えます。
古代の竹簡に記されていた言葉が、現代を生きる私たちの本質を突いてくるというのは、なんとも痛快であり、同時に人間の根源部分の変わらなさを感じさせます。
